| 「質問OK」 2008年10月 アメリカ人は、会議や集会で、よく質問をします。質問は、といわれた瞬間に、バババと手が挙がる。この傾向は、子供のころからしっかりと学習されたものなのです。
アメリカの学校では、義務教育の過程で、年に何回かクラス単位で、博物館や劇場などを訪れるフィールドトリップというのがあります。
行き先では必ず、担当者がでてきて、そこの説明を行い、必ず、質問を受け付けるのですが、どう思いますか?といわれただけで、さっとあっちこっちで手が挙がる。
そして、質問が出ると、いちいち、担当者が、「いい質問ですね」というのです。
質問すると、ほめられる。それがうれしいから子供たちは、せっせと質問する。人の前で何か言うのが恥ずかしいという感覚は、おおむねありません。
先生の質問に答えて、それが間違っていた場合でも、「違います」と切り捨てられることはまずなく、「それは、こういうときですね。でも、この場合は、どうでしょう。ほかに、違う考え方がある人」という風に、先生が持っていく。
間違うのは当たり前。間違いながら覚えていくのだから、間違いもむしろ奨励されているのです。
一番、悪いのが、何も言わないこと。黙っていると、評価ががたんと下がります。
「ほめ言葉を考えよう」 2008年10月
アメリカでは、基本的に子供をほめます。義務教育がはじまる幼稚園の初日に、ほめ言葉のリストをもらい、それが、紙の両面びっしりに並んでいるのを見たとき、日本語はとても叶わないと思ったものです。
ほめられつけている子供は、社会人になってから、ほめられないと仕事の意欲が減退するといった弊害もあるようですが、ほめるというのは、いいことだと思います。相手にとっても、すばらしいという気持ちを伝えるこちら側にとっても。
できないところに目を向けるのではなく、できたことを評価する。そうやってたくさんほめられて育った子供は、往々にして前向きです。
日本語でも、ぜひ、ほめたいと思うのですが、考えてみると、日本語には、ほめ言葉というのが、絶対的に不足しているような気がします。
「すばらしいですね」って、なんか白々しいし、時と場合によっては生意気に聞こえるし。
「よくできたね」って言うのは、子供にはいいけれど、大人に面と向かっていえる言葉でもないし
どう思いますか。
「自由な精神育むユニークな授業」 婦人公論 海外女性通信 2007年2月
アメリカでは、義務教育がキンダーガーテンから始まる。日本なら幼稚園の年長さんに当たる年齢の子どもたちが、小学校の敷地内にある教室に通学し、簡単な算数や読み書き、科学、社会などの勉強をするのだ。
もっとも、教科書があるわけではなく、宿題も、学校から配られる本を親が読み、子どもがその感想を絵に描く程度。授業も、大半がゲーム感覚で、教室には、積み木やブロック、パズルなど、体験学習用の教材が山ほど用意されている。
先日も、授業の一こまで、二人一組になって「何か」を演じ、それをクラスメートが当てるというゲームをした。ペアになった子どもたちは、教室の外にでるや、何になるか相談をはじめ、短時間でちゃんと合意に達して、みんなの前で熱演して見せるのだ。
口から「ハッー、ハッー」と息を吐き出してドラゴン。右手で握りこぶしをつくりおなかの脇にぴたりとつけ、バタンと声をだしてドアの取っ手。二人ぴったりくっついて両手両足をふにゃふにゃ動かし、たこ。縦に重なって寝転がり、前の子が両手を口の形にしてパタンパタン、後ろの子が足を左右にゆっくり振ってワニなどなど。子どもたちが、自発的に「何か」を思いつくプロセスも興味深かったが、演じる子どもたちが、無意識のうちに、交渉能力、決断力、問題解決能力、表現力を体得していけるように仕組まれているゲームにも、感心した。
アメリカの学校では、行事の中味や詳細が、日本のように丁寧に報告されない。授業の流れも、子どもの興味の度合いによって日々変わるし、先生の技量によっても、隣のクラスと授業の中身が、まったく違うということがしょっちゅうある。だから、子どもが入学した当初、私は、かなり戸惑った。それでも、毎日、教室でボランティアをしているうちに、子どもたちが、満面の笑顔の中で、将来、アメリカ社会で生きるうえで必要とされる自己責任の感覚や創造性を着々と身につけていることがわかり、「アメリカ人」は、こうして作られるのだと納得するようになっている。
「寄付と工夫で教育参画」 婦人公論 海外女性通信 2006年11月
サンフランシスコは、就学年齢に達した児童の3分の1が私学に通う、全米で
もめずらしい都市である。公立校の入学には、(親の経済力などの多様性に配慮
したうえでの)抽選方式が採用されている。わが子が希望した学校へ入れなかっ
た場合、下は4000ドルから、スタンフォード大学並みの3万ドルにものぼる
年間授業料を支払ってまで私学へ進学させる裕福な家庭が多いのだ。
一方の公立校でも、親の貢献が教育現場で不可欠の要素であることに変わりは
ない。ティッシュペーパーや手洗い用石鹸などクラスの必需品はもとより、体育
や音楽の講師を雇う費用も、親の寄付金で賄われる。1人あたり200~300ドルほ
どだが、目標額に達しなければ、同じ学年でもクラスによって音楽の授業が設け
られなかったりする。
始業早々から新入生の親のために寄付金の仕組みを説明するオリエンテーショ
ンが催され、その後も毎週、基金作りのイベントを細かく記載したプリントが配
られる。クリスマスが近づくと、友人や親戚縁者に声をかけて、売り上げの一部
が基金につながるショッピングサイトを利用するよう奨励され、1日で10万ドル
近くを捻出する冬のオークションでも、当日の参加協力が声高に呼びかけられる。
金銭面で父母にかけられる期待が大きいぶん、教育現場に対する親の介入権も
また大きい。教育の地方分権も徹底しているから、父母からいいアイディアが出
れば、クラス担任の裁量だけで即採用される。たとえば私の場合、おやつの時間
に持っていったレンコンがきっかけで、野菜を使った版画の授業を指導したこと
があった。
アメリカのエリートの多くが予算の少ない公立校出身であるのも、親がお金だ
けでなく知恵を出し合って学校と協力し、子どもの教育に貢献しているからと
言っていい。実力あるものは肩書きに関係なく、自ら率先して社会貢献し、社会
は有能な人材をどんどん登用するべきだというアメリカ的な価値観が、教育の現
場にも、しっかりと反映されているのだ。
「うまい子育ては3つのEで」 商工会議所12月号
出産、子育ては、人類が綿綿と繰り返してきた自然現象だ。だが、一個人にとっては、人生最大級のイベントであることにかわりない。とりわけ、母国でない土地で、出産、育児に取り組む場合、衣食住を含めた環境の違い、文化、価値観の調整などに、予想外のエネルギーが必要となる。まわりがしているように、あるいは、自分の親がしていたようにやっていれば、なんとかなるわけではないのが、海外での子育てだといえるだろう。そんなとき、洋の東西を問わず、子育ての行動基準になるのが、3つのE(Evaluate,? Empower, Explore)だ。
1)観察する:適切な行動は、まず状況を観察することから始まる。ドイツ生まれの心理学者エリクソンが残した発達段階表は、子どもを観察する際の目安として参考になる。乳児期は信頼か不信か、青年期はアイデンティティの確立か拡散か、壮年期は世代性か停滞かといったように、人間には、発達段階に応じた克服すべき心理的、社会的な危機があり、それをプラスに解決できたとき、次の段階に進むことができ、最終的に、徳(Virtue)が得られるというのが、エリクソンの考え方だ。表を見て、本人にとって、何が克服の課題になっているのかがわかると、目の前の現象を把握しやくなる。
たまに、問題児扱いされ子どもの中に、天与の才を持っている子がいる。身体的、精神的な異常を持って生まれる子どもが、出産件数の約1%いるように、いわゆる天才といわれる子どもも、全体の約1%いるといわれる。標準正規分布表の両極端に存在するこの子どもたちは、どちらも、一般の子どもたちとは、違ったものの見方、感じ方をするため、誤解が生じるのだ。ちなみに、天与の才には、1)Intellectual(知性・知力 )2)Psychomotor(運動能力)3)Sensual/Kinesthetic( 感覚)4)Creative(創造力)5)Emotional( 感性)がある。
2)力づける:子どもが、「できる」という実感を持てるように指導する。叱咤激励は逆効果だ。できるという実感は、好きなことをしているときに、得られやすいので、それを見つけて、続けられるよう配慮してやればいい。体を動かす分野がいいが、書道やアートなど、思考を司る左脳を休め、創造性を司る右脳を刺激する活動でも、免疫力の上昇、自信の育成、ストレス解消といった効果をあげることができる。
3)機会を与える:体験は、金である。自分で考え、自分の判断で行動する場を与えると、子どもは、自己主張能力や自己コントロール能力を発達させる。
18歳になったら、子どもは親元を離れるというのが常識であるアメリカでは、早い時期から、キャリア意識を育むための努力がなされている。子育てのゴールが、子どもをひとり立ちできるようにすることだという原点に立つと、理にかなった教育方針といえるだろう。もっとも、就職は大学に入ってから考えるという日本社会で育った親にとっては、これがなかなか難しい。さしあたって、1)自立する(収入の確保)2)助け合う(共存共栄の発想)3)自分の行動に責任を持つ(環境)という3点を念頭に置いた会話を日常生活に取り入れるところから、始めるといい。
3つのEで子育てをしていて問題にぶつかったときは、先の号で紹介した3つのCで対処する。
Check:ストレスを感じる状況を認識する、Change: 違う考え方をしてみる、Can Do:新しい考え方に基づき、行動する。
人間関係のいざこざは、コントロールが原因になっている場合が多い。無力感を感じると、人は、咄嗟に、相手を変えようと試みたり、状況から逃避しようとしたりするが、それでは、悪循環に拍車がかかるだけだ。だから、問題が起きたら、咄嗟の行動をぐっと戒め、自分になにができるか、建設的な解決策を考えて、行動に移す。
子どもは、花を咲かせ、実をつけるために必要なものをすべて持って生まれてくる種である。どんな花を咲かせ、実をつけるかは、そのときになってみなければわからない。親は、そのときを見届けることができるかもしれないし、できないかもしれないが、そのときがくると信じて、種である子どもが根を張る土と成長に必要な水を提供し、適切な手入れをしてやるものだと、私は思う。
子どもの誕生は、個人の生活に大きな変化をもたらすものである。日本にいても、アメリカに住んでいても、子育ては、親の孤立感、不安感を増徴させる可能性を含んでいるが、その一方で、親となった人間の行動力を養い、自信を育む絶好の機会にもなりうる。
子育ては、一過性のイベントだ。だから、子育てで行き詰ったときは、其の事実を思い出し、深呼吸して、明日は別の日と新たな気持ちで子どもに接する。そして、実質的な子育てが終了した後は、自分がこれまで費やした時間と努力がどのように開花していくか、見守ればよいのだ。
成人した子どもの先行きをいつまでも案じたり、子育てのしかたが間違っていたのではないかと過去を振り返って忸怩たる思いを抱き続けるのは、建設的な生き方とはいえない。自分自身の人生の質を低下させるだけでなく、心配され、かまわれ続ける子どもの成長を妨げることになるからだ。人間には、軌道修正能力が備わっている。子ども時代のトラウマは、中年になるころまでに、たいていの人が乗り越え、独自の道を進んでいくという調査結果も発表されている。人間は、評価され、認められたときに、自信を持って前進できるものなのだ。
もちろん、子どもは、親にとっていつまでたってもわが子であることにかわりはない。子どもが絶体絶命の窮地に立たされたときは、知恵を絞って、手を差し伸べるのが、親でもある。その辺のバランス感覚の習得が、この世で子どもを授かったものに与えられた永遠のテーマであるといえるだろう。
「サンフランシスコの学校事情」 あんなこと、こんなこと 2006年9月2日
キンダーガーテン5日目のボランティアは、とても忙しかったです。
今朝のスナックは、ゆで卵とトースト。教室で、ゆで卵を花形に切ろうと思っていたのですが、サークルタイムが始まるや、先生から、「今日は、ステーションを担当してください」とリクエストがでて、ちょっと慌てました。
ステーションというのは、グループにわかれた子どもたちが、それぞれ違う活動をするための場所のことをいいます。。私が担当するステーションでは、「いたずら子ザルジョージ」のお話に出てくる紙ボートを作って、色塗りをする予定になっていました。折って、たたんで、広げて、折ってという作業は、大人の私でも、お手本を見なければならないほどなので、5歳児に折らせるのは、所詮無理な話です。そこで、ちょっと折っては、「じゃあ、ここを押さえて」と、4人順番にやらせていたら、どんどん時間がたってしまいました。
色塗りのステーションのあとは、レゴで遊ぶ子どもたちの監督をしました。こちらは、なかなかにぎやか。立派なスペースシップを組み立てる子もいれば、レゴ一枚に動物のおもちゃを乗せて、「ブーン、ブーン」とやっている子もあり、そのそばで、ぽつんと座って、カエルのおもちゃをもて遊びながら他の子を見ている子もいるといった具合。一人一人に「よくできたわね」、「カエルにお友達を連れてきたら」などと声をかけていたら、泣き出す子が現れました。聞けば、立派なスペースシップを作った子が、レゴを貸してくれないとのこと。
こちらでは、その子が作った作品は、その子の許可なく、触ってはいけないことになっています。泣き出した子は、悔し紛れに「もうお友達じゃない、遊んでやらないから」とプリスクールでよく使われるテクニックで挑んだのですが、相手は、一枚上手で、「いいよ、僕には遊ぶ友達がたくさんいるから」と切り替し、
6歳に近い子と5歳になったばかりの子の発達の違いを見せてくれました。
担任の先生とはじめてはゆっくり話をする機会があったのは、お迎えにいったときでした。私が大学院を出たカウンセラーであると知ってから、先生は、会話の中で、体験学習の重要性を感じながらも、統一テストの好成績を維持するために努力しなければならないことにジレンマを感じていること、人手不足で、自分が思うようには、子どもたちを自由に歩き回らせられないことなどを話してくれました。
1人の先生が5人前後の子どもを担当するプリスクールと違い、キンダーガーテンでは、一人の先生が、20人の子どもの監督します。必然、子どもたちは、一箇所に座って、先生の話を聞くことになり、これまで通っていたプリスクールとの勝手の違いに戸惑ったり、飽きてうろうろしだす子がでてくるわけです。教室に設置されているいろいろなステーションで、子どもたちに好きなテーマの体験学習をさせるためには、先生と同じように児童の監督ができる人材が不可欠です。
そこで、私が、その役をかってでると、先生はとても喜んでくれました。この年代の子どもたちにとって、同じ人が継続的に面倒を見ることは、安心感をうみだすうえで、とても重要な要素でもあるからです。
公立学校のよしあしは、父兄の資質と関与のしかたにかかっているといわれるアメリカで、私も、いよいよ、父兄としての第一歩を踏み出すことになったのです。
父兄が学校活動に関与している子どもほど、成績がよくなるという調査結果もあるし、ボランティアを続けていけば、私自身、いろいろな発見ができることでしょう。なんだか、教育現場での新しいインターンシップが始まったような気持ちです。
「日米教育方針の違い」 あんなこと、こんなこと 2006年8月31日
キンダーガーデンのスナック係兼クラスボランティアも、今日で4日目になりました。
子どもたちの特徴がとてもよくわかるようになり、同時に、日米の教育方針の違いにも、改めて気付かされています。
評価できる点は、集団活動とグループに分かれての活動を織り交ぜていること。気になる点は、授業中の姿勢とスナックの食べ方です。
先生は、授業の前に、「座りなさい」と指示をだしますが、床に座り込む子がいても、文句を言いません。そのうち、その子が床に寝転び、他の子がそれに倣って姿勢を崩し、床に寝転びだしても、足で隣の子を蹴ったりしない限りは、お咎めがなし。生徒に向かって先生いわく、「寝そべっていても、集中できる人はいるので、私は、気にしません。でも、目をつぶったり、先生の顔を見ていなければ、寝そべってはいけません」
日本では、ものを食べる前、「お弁当、お弁当うれしいな」と歌うかどうかは別にしても、必ず、「いただきます」といいますが、こちらでは、最初の数日だけ、「スナックを持ってきてくれてありがとう」と先生に指示されて子どもたちが私にいい、「食べてもいいです」という合図でスナックを食べていましたが、4日目ともなると、ありがとうもなく、気がついたときには、食べているといった具合。
けじめの考え方が違うんですよね。
まあ、どんなことであれ体験は、金。これから、注意欠陥障害についての資料を読んで、明日に備えます。
|