| 「キンダーガーテンがはじまりました」 あんなこと、こんなこと 2006年8月28日
子どものキンダーガーデンが始まりました。初登校に先駆けて行われた顔合わせで、スナック係をおおせつかり、突然のことにてんてこまい。1週間分の献立を考え、大慌てで買い物をして、早朝、20人分のスナックを持って、子どもと一緒に登校しました。
最初は、どうしてこんなことになったんだと焦りましたが、スナック係をやってみたら、早々から、子どもたちの顔と名前を覚えられるし、学校の様子もわかるしでいいことづくめ。子どもたちが、私の差し出すスナックをパクパク食べるのを見ていたら、来週もやってもいいなと思えるくらいやりがいを感じました。
子どもの報告によると、お弁当の時間、大半の子どもが、ポテトチップやチューブ入りのヨーグルト、クッキーを食べていたとのこと。もちろんうちは、ご飯中心のお弁当です。子どもが、人と違う弁当を恥ずかしがるのではないかというのが、ちょっと心配でしたが、子どもの反応は、「お菓子はお昼ご飯じゃない。自分の弁当はおいしかった」と。うれしかったなあ。
成長している子どもにとって、親がしてやれる一番の贈り物は、健康な食生活を身につけさせることです。
私のために、毎日、弁当を作ってくれた母のおかげで、私も、同じように今、息子にしてやることができる。ささやかな努力の積み重ねが、未来を変える力を持っていることに改めて気付きました。
だから、キンダーガンデンのスナック係は、子どもたちに、栄養のバランスを考えたものを食べてもらうことで、未来に貢献しているのだという自負心をくすぐってくれるものだったというわけです。
ちなみに、今日のスナックは、にんじんとバナナ、クラッカー、明日は、きゅうりとストリングチーズ、プリツェル、あさっては、すいかと胚芽トーストの予定です。
「もうすぐ5歳」 あんなこと、こんなこと 2006年8月19日
4歳を過ぎてから、一緒に本を読んだ後、子どもが一人で電気を消して寝るようになってちょっぴりさびしいという話は、このコラムでもしたことがあります。でも、それには後日談があって、4歳半のとき、親子3人で日本旅行をし、布団で川の字に寝て逆戻り。夜中にパタパタやってきて、「ママ、来て!」と、小さな声でささやいては、私を何度も起こすようになりました。私が学会で不在だったとき、「おやすみ」といって電気を消したら子どもが朝までちゃんと寝たという実績を持っている夫は、私が甘やかせるからそうなるのだと、断固一人寝させることを主張。子どもも負けてはおらず、あの手この手で、ママと寝たいといいはります。私はといえば、夫への気兼ねさえなければ、子どもが慕ってくれる限り、ずっと子どもと一緒にいたい。というわけで、5歳までという約束で夫をなだめ、5歳になったらロフトベッドを買うから一人で寝るのよと子どもと約束して、私が子ども部屋で眠ることになったのです。
「僕、もうすぐ5歳!」と会う人ごとにいっていた息子が、「僕は、まだ4歳」というようになったのは、5歳まであと一ヶ月少々というころからでした。「5歳になったらロフト買うのよね」といっても、「うん、買うけど、でも6歳でいい」と口ごもり、なにかあるたび、「ママが〜するから」と文句をいったりするのです。
なんでだろうと思って考えてみたら、夫も私も、ことあるごとに、「もうすぐ5歳なんだから〜」といっていたことに気付きました。年齢相応の責任を子どもに期待するなら、同時に、それ相応の自由も与えなければならない。お菓子を制限するときは、まだ、4歳なんだからと思い、きちんと座らなければ、もうすぐ5歳なのにと親が思っていたのでは、子どももたまったものではありません。
それにしても、5歳というのは、なんと言う節目でしょうか。体力がどんどんついてきて、夏の間にクロールと背泳ぎをマスター。「あと何回寝ると誕生日?」という秒読み段階に入るころには、「ママ、海よりも深いものはなあに?」、「海よりも深いものは、愛よ」、「愛ってなあに?」、「愛っていうのは、ママが、愛ちゃんを大好きだって思う気持ちのこと」という会話が成り立つまでになったのです。
そんな息子を見て、「ああ、愛ちゃん、どんどん大きくなるね。ティーンエイジャーになったらどうなるんだろう」と私が呟いたら、好きな本のページをめくっていた息子が、「ティーンエイジャーになっても、愛ちゃんは、ママが大好き」とサラリ。思わず子どもを抱きしめながら、本当にそうだったらどんなに素敵だろうと心の底から思いました。
今月のメッセージ
子どもが5歳の誕生日を迎えました。8月生まれなので、5歳になった途端、キンダーガーデンも始まりました。誕生日と前後して受け取った学校からの通知に、用意するもの:フォルダーが入るバックパックと書かれていたのを見て、日本の小学校一年生が、大くてピカピカのランドセルを背負って、桜の花びらが舞い散る校門を元気よくかけてゆく姿が思い浮かびました。子どもの成長は、本当にあっという間。かけがえのない一日一日、大切にしていきたいものだと思います。
「子育ては臨機応変に」 あんなこと、こんなこと 2006年8月3日
子どものサマーキャンプ、二日目でやめました。高校生のお兄さんお姉さんが先生で、大学生が監督という設定は、やはり4歳の子どもを預けるには、少々不安すぎました。
友達作りの才能がある息子は、初日から大丈夫でしたが、入り口が解放されていて、入る気があれば、関係者でなくても入れる、幼稚園から中学生まで100人以上の子どもが参加しているので、先生が生徒を把握しきれない、何時にどこで何をしているのかをはっきりと提示してもらえない、先生である高校生が、休み時間にバイオレンスなビデオを見ていて、それを小さな子どもが覗き見できるなどの点が、問題となり、夫と話し合った結果、急遽、キャンセルしたわけです。
用心深すぎるともいえますが、万一が起きてからでは後の祭り。3週間後に5歳の誕生日を控え、これまで、子どもの管理を厳密にしてくれる保育園に通わせて、万全を期してきたのに、ここにきて後悔することになったら、もともこもありません。
というわけで、さて、これからの3週間どうするか。
結局、ジムとプールとプレイデート、そして、母子で本読み、料理、ひらがな遊びをすることに決めました。
キンダーガーデンが始まったら、こんな自由な時間もなくなるのだし、これはこれで、いい結果になったと思います。
子どもって、4歳過ぎると、あっという間に大きくなってしまうものですね。
「今日のお弁当の中身」 SF月刊もん掲載 2006年8月
今日のお弁当のおかずは、ほうれん草の味噌胡麻和え、プチトマト、鶏肉と卵のそぼろをのせたごはん、スイカ、ブルーベーリー、ラズベリー。4歳児のお弁当なので、量は、ささやかなものですが、見た目は、なかなかの豪華版。ちゃんと5色入っているし、いい弁当だと自我自賛してふたを閉めました。栄養のバランスをとるには、「5色入っていればいいのよ」と教えてくれたのは、昭和一桁の母でした。
それにしても、なぜ、私は、これほどまでに気合を入れて子どもの弁当を作っているのか。事の発端は、学会発表で3日間、家を開けたことでした。不在中の食事の指示は、2ページにわたって細かく記載し、夫に渡しておいたので、3日間を乗り切った夫は、うまく言ったとご満悦だったのですが、息子は、「ダディーは、シリオばっかり食べさせる」と不満顔。そして、今度、私が仕事で出かけるときは、ついていくといいだしました。おいしい朝ごはんが食べたいからついてくるなんて、なんと現実的なと最初は拍子抜けしましたが、考えてみたら、それは、息子が、人間の基本である「食」担当者として、私を認めてくれているという証拠でもあるわけです。ならば、張り切らない手はないというものでしょう。
私自身、子どものころ、母が作ってくれるお弁当が、本当に好きでした。小さなお弁当箱にいろいろなおかずが色とりどりに入っていて、お友達から羨ましがられることもしばしばでした。自分が作り始めてよくわかるのですが、私の母は、そんな手のかかる弁当を私が幼稚園から高校を卒業するまで毎日作ってくれていたのです。
私は、幸い、料理を作るのが苦になりません。お菓子作りは、とりわけ好きです。昨日は、かねてから探していたきびを日本街で見つけたので、さっそく、桃太郎にでてくるキビ団子を作りました。ゆでるバージョン、蒸すバージョン、レシピどうりでは気が済まず、きな粉つき、小豆入りと、いろいろ作って息子をびっくりさせました。あつあつを口に運んだ息子が、「おいしーい」といった顔は、粉まみれになった私にとってのなによりのご褒美、とてもうれしかったです。
国民の96%が、太り気味または、肥満であるアメリカで、健康的な食生活を維持しようと思えば、自炊能力の習得は、必須といっていいでしょう。だから、私は、ドラえもんが5大栄養素について教えてくれる本を図書館で借りて子どもに読んで聞かせたり、「ママがいなくても、おいしいものが食べたいでしょう」と息子を励まして、どんどん、料理にも参加させています。つい先日、息子は、卵をきれいに割れるようになりました。
子を持って知る親の恩というけれど、弁当を作り続け、私に「食」の重要性を実感させててくれた母には、今でも、本当に感謝しています。教えられなくとも、そばにいて、みようみまねで覚えた知恵は、しっかり娘から孫へと受け継がれていくものなのです。
今月のメッセージ
「食」は、人なり。バランスの取れた食生活の基本を作ってやるのは、親が子どもにしてやれる最大の事業だと思います。肥満大国アメリカでは、なおのこと、親の意識の持ちようで、子どもの将来に大きな影響がでるのです。
「何とかなる、何とかできる自分がいる」 あんなこと、こんなこと 2006年7月18日
出発を目前に、シカゴ行きの搭乗券が印刷できず四苦八苦していたとき、私は、もう二度と学会発表なんかするものかと思った。ハンドアウトを校正するたび、プリンターのインクは減るし、万一に備えてオーバーヘッドプロジェクター用のスライドを作れば出費が嵩む。航空券にホテル代、せめて、プレゼンテーションが、継続学習のクレジットになるならまだしも、身銭をきるにもほどがあると思ったからだ。
まったく、何のためにこんなことをしているのだろう。発表が決まってからの半年間、何度そう思ったことだろう。だが、そう思いながらも、私は、当日に備えて構想を練り、何度も推敲を重ねて万全を期した。選ばれたからには責任があるという気持ちと今回の発表は必ず自分のためになるという確信が心のどこかにあったからである。
飛行機は、定刻どうり、サンフランシスコを飛び立った。眼下に広がる広大な大地は、私が初めてアメリカを訪れた日と同じ様相を呈していた。だが、その大地を見つめる私は、アメリカという国のスケールに圧倒された20年前の自分でもなければ、東京でしていたことをアメリカで出来る日がくるのだろうかと途方に暮れた10年前の自分でもなかった。今の私は、アメリカの大学院でマスターを習得し、アメリカの大学で働いた経験を元に、自分の考えを大勢のPhDが集まる世界大会で伝えるという目的を持ってシカゴへ向かう全米認定カウンセラーだ。ああ、そうだったのか。このためだったのか。こみ上げてくる感動を意識した瞬間、私の中にあった「何のために」というわだかまりが消えていった。
中学生のころ、英語教師でもあった担任から、英語に対する努力不足を指摘され、転校を示唆されたことがある私にとって、在米日本人学生が、就職面接の際、なぜ舞い上がって失敗するのかという原因を考察し、解決策を提示する今回の発表は、格別な意味をもっていた。英語の構文を丸暗記した高校時代を経て、洋書を読まされ、歯が立たないことに愕然とした大学時代、タイが好きでタイ語を独学、3ヶ月でしゃべれるようになり、言葉は、伝達の手段であり目的ではないと確信した20代前半、タイで知り合い婚約したアメリカ人と泣きながら英語の辞書を叩いてケンカした20代後半、外国人に日本語を教え、日本語の特徴を客観的に把握した30代前半、大学院の勉強を続けるために必要なエッセーテストに何度も失敗し、英語を書くときは、日本語で考えてはいけないということを学んだ30代後半と、今回の発表は、自らの体験を振り返り、試行錯誤の末に得た私なりの結論を世に問うに等しかったのだ。
発表会場は、暖かいオレンジの照明が施されたこじんまりとした部屋だった。係りの人が、手際よくPCをプロジェクターにつないでくれると、半年がかりで練り上げた私のプレゼンテーションが、大きくスクリーンに映し出される。参加者を目の前にすると、昂揚感が湧き上がり、しゃべりだして数分もたたないうちに、伝えたいことが口からどんどん滑り出た。質疑応答が始まるころには、情熱全開となり、持ち時間がまたたく間に過ぎていった。発表の評価は、優(Excellent)、達成感は上々だった。
その日の夜、学会が開催されたシカゴのホテルで、私は、まどろみながら、中学校時代の自分の姿を思い浮かべた。首から提げた銀色の十字架をもてあそびながら、黒ぶちめがねの向こうの冷ややかな目で私を見据える英語教師の前で、息も出来ないほどの恐怖を感じ、青ざめている少女の姿である。私は、この少女をこれまでに、何度か慰めたことがある。「今は、絶体絶命と感じているかもしれない。でもね。あなたは、大きくなったら、あなたしか知らないことを英語で人に教えられるようになるのよ」と。そのたび、少女は、涙ぐんだ瞳で私を見あげ、半信半疑の顔をした。だが、その日の少女は、違った。すっと立ち上がると、フィナーレの挨拶をする役者のようにスポットライトの下に進み出て、深々とお辞儀をしたのである。ああ、終わったという感慨が、胸いっぱいに広がる。私は、「ありがとう」と心の中でつぶやいた。
人生を彩るすべての体験は、自分を鍛え、知恵と勇気を育むバネになる。サンフランシスコに戻ってから日がたつにつれ、私は、そんな確信を抱くようになっている。自分の人生は自分のためにあるのだから、たとえ何年、何十年かかろうと、気になる課題があれば避けて通らず、じっくり取り組む方がいい。そのプロセスが、人生を豊かにし、なんとかなる、何とかできる自分がいるという自信を育むことにつながるからである。
今回の学会発表をきっかけに、私は、何とかしなくちゃという焦燥感を感じることがなくなった。以前は、ボールを投げられると、とにかく受け取り走りだすようなところがあったので、目の前に、試練の山が現れると夢中で登り、やれやれやっと頂上だと思うまもなく、また次の山が現れて、息つく暇もないと感じることが多々あった。だが、今の私は、小高い丘の上から、どこまでも広がる平原を見渡すような気持ちで、これからのことを考えている。やりたいことが、やりたいときにできるようになるというのは、なんともありがたい話である。
「日本の幼稚園とアメリカの保育園」 SF月刊もん掲載 2006年7月
日本に行っている間、実家の近くにある幼稚園のお世話になりました。アメリカでは、英語のみの保育園に通っている息子にとって、登園3回目とはいえ、日本の幼稚園体験は、ちょっとしたカルチャーショックのはずです。今回は、どんな風に過ごすかなと思っていたら、登園初日から、小倉弁(博多弁とはまったく違うローカル語)をしゃべりだし、笑顔の連続となりました。
とりわけ、息子の印象に残ったのが、銃のおもちゃとお友達との取っ組み合い。
アメリカの保育園では、絶対見られない銃のおもちゃを見た瞬間、息子は、「バン、バン、ババン」と、幼稚園の中を走り回っておおはしゃぎ。お友達のお宅では、押入れに上がりこんでは、飛び降りて、そのまま、レンジャーごっこになだれ込むといった具合。
アメリカの保育園で、ことあるごとに、「押してはいけない、叩いてはいけない、蹴ってはいけない」と、親子ともどもに言い含められていたので、最初は、ヒヤヒヤしましたが、辺りを見回せば、目くじらを立てる父兄はおらず、日本人の先生方も、「おもしろい?」と息子に笑顔で声をかけ、威圧的ではないけれど、説得力のある声で、人にむけて撃ってはいけないといった基本的なマナーを教えてくれています。お友達のお母さんも、「怪我をしないように」と見張ってはいましたが、取っ組み合いそのものを止めようとはしませんでした。
そうよね、これが、子どもらしさっていうものよね、と喜んだのは私の方。迫力満点の取っ組み合いを、自分が標的になっていないのをいいことにになっていないのをいいことに、間近で観戦、応援し、しっかり、写真まで撮ってきました。
エスカレートするのではないかと思っていた息子の「バンバン」は、他のお友達が、楽しそうなことを始めた途端、小休止となり、戦いごっこも、仲裁に入ろうとする直前で、どちらからともなく休憩となって、子どもなりに、「ほどほど」を知っていることには、改めて、感心させられました。
銃が現実社会に密着しているアメリカでは、「持たせない、触らせない」が、徹底しています。でも、子どもは、好奇心の塊。「触らせて、納得させる」ほうが、健全なのではないか。子どものころに「持ちたい」欲求を封じ込めるから、ティーンになって爆発するんじゃないのかなあと思いながらの帰米となりました。
サンフランシスコに戻れば、「叩いてはいけない、バンバンやってはいけない」の世界です。さて、私自身の価値観とここでの枠組みの折り合いをどうつけようかと思っていたら、帰米後の登園初日、保育園の先生いわく、「1ヶ月近くいなかったのが嘘のように、お友達とすんなり合流。ボールで遊ぶ姿に、成長を感じました」。
うーん、適応力は、4歳児の方が、はるかにうえであるようです。
今月のメッセージ
国際結婚の増加、二つの国を行き来できる経済力の増強という要因を背景に、今、二ヶ国語を使い分け、二つの文化に難なく適応できる世代が、生まれつつあります。日本という核があったうえでのバイカルチャーとはまったく違う感覚で、二つの世界を統合していく子どもたちは、どのように、自分自身のアイデンティティーを構築していくのでしょうか。興味は尽きません。
「おもちゃと価値観」 SF月刊もん掲載 2006年6月
日本のゴールデンウィークを子供と一緒に体験してきました。幼稚園もお休みになるし、近所の川で石投げでもして遊ばせるかと思っていたら、あるわ、あるわ。催し物やイベントが目白押し。轟轟レンジャーに仮面ライダー、ドラえもんといった子供向けのキャラクターが連日、あちらの会場、こちらの広場で、ショーと握手と写真会をやっているのです。日本の幼児向け雑誌でファンになっていたキャラクターが、目の前で見られるのですから、息子は大喜び。「本物」の轟轟レンジャーが凶悪な敵と格闘する場面では、さすがに、迫力負けして、抱っことなりましたが、それでも、大いに楽しんでおりました。
日本は、すごいなあ。休日の子供向けイベントを親が考えなくても、いろんな催し物が上げ膳据え膳でセットされている。こっちは、選んで行くだけでいいんだからいたれりつくせり便利、便利と思っていたら、油断大敵。ショーのあとで、必ず、親の懐が狙われるんですよね。「さあ、みなさん、もうすぐ轟轟レンジャーが現れますよ。ショーの後には、轟轟レンジャーが、サインもしてくれます。こちらは、400円。そして、これ(カラフルな轟轟レンジャーの写真付袋を高々と持ち上げながら)お楽しみ袋を1600円でお分けしています」。売るのではなくて、お分けしてくれているのです。当然の事ながら、物欲を刺激された子供は、買わない親(つまり私)に、「ママはいつも、いつも買ってくれない」と文句を言います。キャラクターと一緒に遊ぶクイズやゲームでは、実に豪華な賞品が惜しげもなく、当たった子供に配られるので、当たらない息子は、半泣き状態。おかげで、こちらは、なだめるのに一苦労。
イベント会場を抜け出ても、うかうかしているわけにはいきません。デパートの中には、サンフランシスコではまず見かけないような子供向けゲームセンターがあるし、親がゆっくり買い物できるように、子供を遊ばせるための有料施設も設けられています。町を歩けば、チンジャラ、チンジャラのパチンコパーラーが、好奇心をそそり、おもちゃ屋さんの店頭では、アメリカ人の親が目くじらたてるような武器や高額のおもちゃが、購買欲をそそるディスプレーで、ところせましと並べられ、人の入ったぬいぐるみが握手のサービスをしているといった具合。
浮き足立つ4歳児をその場から引き離そうと思ったら、相当の説得力と根気がいります。わかりやすく話をまとめるという作業は、おのずと、自分自身の価値観を問われることになり、大いに考えさせられました。
今月のメッセージ
目先の物欲に翻弄されず、本当に大切なもの(こと)を見極める力は、積み重ねによる訓練なくして育ちません。その訓練の手助けをするのが、親の務め。まずは、自分の価値観を突き詰めるところからはじめたいものです。
「子どもの成長と親の責任」SF月刊もん掲載 2006年5月
ちょっと動かした肘が、横にいた子どもの頭にごつんと当たって、思わず子どもと顔を見合わせました。最近、大きくなったなあと思うことがしばしばあるとはいえ、いつの間に、肘まで届くほどになったのか。「愛ちゃん、ほんとうに大きくなったねえ」と感心すると、子どもが、照れくさそうに、でも、得意気な顔で、「愛ちゃんは、毎日、毎日、大きくなっているからよ」といいました。
確かに、ここ数ヶ月の変化は、目覚しいものがあります。「赤ちゃん+」から「少年1」になったとでもいうのでしょうか。4歳のときできなかった着替えや靴の紐を結ぶといった身づくろいがスムーズにできるようになっただけでなく、会話がそれなりに成立するようになってきた。そんな変化の中で、とりわけ、「自立」を感じさせられたのが、一人で寝るようになったことでした。
これまでは、ベッドで一緒に本を読んで、眠るまで添い寝をしていたのに、最近は、「明日続きを読もうね」というと、「眠くなるまで一人で本を読んでもいい?」といい、自分の部屋に引き上げる私を後追いすることもなく、一人で静かに本を読んで、ほどなく、自分で電気を消して寝るのです。
眠くならない子どもの横で、泥のように睡魔と闘っていた日々がとうとう過去になっていく。うれしいやら、ほっとするやら。でも、実際にそれが日常として定着してくると、今度は、ちょっと寂しくなって、たまに、「寝るまで一緒にいて」とお声がかかると、二つ返事で、添い寝をしにいくのは、私の方。
子どものぬくもりを感じながら、心地よい寝息をたてるその寝顔を見ていると、再び、大きくなったなあと感慨しきり。この子が私のおなかの中に入っていたなんて信じられないと思うのでした。
子どもの成長には、こんなロマンがたくさんあります。でも、その一方で、山ほどの試練があるのもまた事実。子どもは、行きつ戻りつ、らせん状に成長するので、ときに、4歳半とは思えない理不尽なかんしゃくをおこし、ときに、赤ちゃん返りをし、ときに、生意気千万な憎まれ口を叩いて、親にチャレンジしてくるのです。このげっそり、うんざり、ほのぼの、しみじみは、親子である限り、いくつになっても、続くだろうと思います。
でも、際限なく繰り返されるように思える出来事は、積み重なることで、人間を成長させる機会になります。おかげさまで、「どうして私がこんな目に遭うのよ」と、かつて何度も思った私も、最近は、「親だから」と、さらりと答えられるようになりました。信頼されているからこそ、体当たりされる。ありがたいことじゃない。そう思えるようになると、気持ちも楽になってきます。
今月のメッセージ
子育ては、変化の連続。一喜一憂しながらも、振り返れば、「思えば遠くに来たものだ」。親が親としての責任を全うするためには、なにはともあれ、親の心身が健全であることが不可欠だと思います。
「小学校受験は、成績より"運”」婦人公論海外女性通信掲載 2006年4月7日
アジア系アメリカ人の割合は全米人口でみると4%だが、カリフォルニア大学
バークレー校では全学生の41%、スタンォード大学やペン大学でも約25%を占めている。良い教育を受けた結果か、年収も全米平均年収より1万ドル多い。
以前はこうした人種による成績の差を是正するべく、公立の学校では人種の配 分が行われていた。しかし人種を基準にするのは差別だという意見が最高裁判所 で認められ、クラスの多様性を図る基準は、親の経済力に変更された。中南部の 公立校では低所得家庭の子が高所得家庭の子と一緒に勉強することで全体の成績 が伸びる、といった好ましい結果も得られている。
さて、私たちの住むサンフランシスコ市は、義務教育の公立学校入学に「抽 選」制が採られる、全米でも稀有な都市だ。
公立校の願書には7校まで記入でき、抽選は1校ずつ行われる。第1希望に受かる確率は約60%で、人気校を書けば当然、抽選に外れる確率も高くなる。どの学校をどんな志望順で書くかが思案のしどころだ。このシステムに見切りをつけた高所得層の親は、年間180万円近く学費がかかる私立校に殺到するようになった。
歩いて数分のところに評判の学校があっても抽選に漏れれば入れない。スクー ルバスの循環範囲より遠い学校になれば、毎日、車で送り迎えしなければならな い。治安の悪い場所に振り当てられれば、勉強以前に、いつ弾が飛んでくるかわ からない。最後は運次第とはいえ、情報収集が肝腎だ。公立校の学校説明会が行 われる秋は、夫婦が手分けし、仕事の合間を縫って市内を東奔西走する。万一に 備えての私立校受験では、親子それぞれの面接に加え、志望動機のエッセー(作文)提出が求められる。
願書の締め切りは1月中旬、抽選は3月上旬、結果に対する不服申し立ては3 月下旬まで。最悪、秋の始業シーズンになっても通う学校が決まらないケースも ある。
わが家の息子も今年5歳。第1希望の公立校へ入学なるか、この記事と同 じ頃に、その結果も出ているはずだ。
「二人目は?」 SF月刊もん掲載 2006年4月
指定された学校への登録は、週明け早々に行きました。保育園のお迎えのあと、子どもと一緒に、わくわくしながら、通知に書かれていた住所に向かったのです。ところが、着いてみたら、「このキャンパスではないんですよ。どうして、当局は、正しい住所を記載することができないのかしらね」と、事務所の人に、「正しい」場所を教えられました。私が見学したときに行った場所と違うような気がしたのですが、彼女は、絶対そこだと主張します。数ヶ月にわたって11校も見学したので、私も記憶には自信がなく、とりあえず、言われた方角へ行きました。ところが、案の定、それらしい建物はなく、あっちへうろうろこっちへうろうろ。そうこうするうち、曇り空から雨がぽつぽつ、寒風が吹き荒れ始め、「本当に正しい」場所を探し出すころには、親子ともども、へとへと。晴れの入学手続きだからと、いつになく薄着をしていたことも災いし、入学手続きが終わるころには、のどがひりひり、頭がカーッと熱くなっていました。
子どもが2週間近く咳を伴う風邪を引いていたので、うがいと手洗いで必死の抵抗をしていたのですが、学校の心配がなくなって気が緩んだ途端、疲れが一気に噴出したようです。それでも、「体が休めといっている」といって、おちおち寝込んでいられないのが、お母さん。朝はお弁当をつくり、夕方は夕食のしたくをする自分の一日を振り返るにつけ、「母は強し」って本当だなあとつくづく思いました。午前がジム、午後はプールという日は、同じクラスのお母さんに、送り迎えを頼んでしのぎました。ただ、習い始めたばかりの水泳は、そうもいきません。しかたない。休ませてビデオでしのぐかと思っていたら、運良く、夫が帰宅。事情を説明すると、プールを休ませたくない夫が、風邪気味だから早引けしたと言っていたにもかかわらず、「じゃあ、僕が連れて行ってくる」。
こうしてなんとか、6日目に熱は、下がったのですが、今度は、夫が、咳と鼻水、しかも、なぜか結膜炎。おかげで、私は、ぜーぜー息をしながら、普段夫がやってくれているごみだしをやり、洗濯物をかかえて、階段を上ったり降りたり。
翌日、会社を休んだ夫と顔と顔を見合わせ、「年とったよねえ。風邪の治りは悪くなったし、白髪は増えたし」としみじみ。「二人目が欲しいなんて、老いに対する悪足掻きかもね」と、私がいったら、夫は、否定も肯定もせず、「今日は、とにかく回復日だ」と言いました。
今月のメッセージ
公立校の抽選結果がでました。第一志望の学校にはいることができ、久々の開放感を味わいました。5月帰省の際には、早めの七五三も予定しており、なんだか、一段落した気分。ふと、もう一人欲しいなという気持ちになりました。思い起こせば、擬似とはいえ、生後4ヶ月のとき乳児突然死症候群で入院。その後、自分が過労で夜中に救急車で運ばれ、子どもが3歳になるころには、育児疲れが、回転性のめまいとなって現れて、もう子育てはこりごりだと何度も思ったはずなのに。のどもと過ぎれば暑さを忘れる。遺伝子の力は偉大です。
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